20世紀初頭、ダダの作家であるキリコによる「街の憂愁と神秘」には、白く照り返す壁と対照的に暗い影を落とすアーケードの間を、髪の長い少女が輪まわしをしながら駆け抜けていく様子が描かれています。
しかし少女の先には不気味な黒い影が待ち受け、傍らの囚人車の存在も相まって、今後起こるであろう不吉な予兆がえもいわれぬ緊張感を孕んでいます。
電脳コイルの後半を覆うイメージは、この絵画のもつメタフィジックな不安と同調する部分が多いように思いました。
それは、孤独な魂がとらわれた街の哀しみであり、いずれおとずれる恐ろしいばかりの静寂です。
事故直後、兄ノブヒコの死を知ったイサコはその事実を拒絶し、イマーゴによって作られた電脳空間に閉じこもってしまいました。
コイルスノードのデンスケを連れた幼いヤサコは、偶然その空間に入り込み、その後何度も夢の形でアクセスすることになり――結果、ふたりは同じ電脳空間をそうとは知らず共有していたのでした。
ミチコとは、イリーガルから分離したキラバグの姿であり、彼女に導かれるとイマーゴによって電脳空間への通路が開き、最悪電脳コイル現象を起こしてプログラム化した意識が肉体に戻らなくなってしまう……おおよその事実はこんな感じ?
イサコがとらわれた鳥居階段のある空間は、死にもヤサコにも兄ノブヒコを渡さないというイサコの思いと、黒い影に覆われてしまう4423(ノブヒコ)を助けたいというヤサコの恋心が合致して生まれたものでした。
すなわち、この空間を支配するミチコは、ノブヒコに対するふたりの執着が顕現したものとも言えます。
ミチコは己が空間で生き延びるため、イサコの意識を操作するに至りました。干渉したのは猫目ソウスケ。子どもの執着をそそのかすなど、造作も無いことだったでしょう。
けれど、そんなもろもろの小賢しいトラップを全部ぶちのめし、デンスケに助けられたヤサコの怒号が、イサコを真に目覚めさせました。
道は、つづいていました。
プログラムがヒトに擬似化した自意識(あるいは自意識のようなもの)をもつというSF作品は80年代以降多々生まれました。しかし「トイレの花子さん」のような、子どもたちに特化した都市伝説と結びつけ、尚且つ「純然たる子ども時代から脱皮させる成長物語」までからめたハットトリックを最後まで破綻せずまとめあげた手腕は、ただお見事のひとこと。
正直、ここ何年の間で、これだけ完成度の高いオリジナル・アニメは他に類をみないと思います。
行方をくらましたソウスケ、メガマスの内部調査と結果報告にともなう事後処理、慰謝料問題、隠蔽に対する刑事告発等々難問山積は予断を許しませんが、とりあえず中学生になったヤサコがメガネをかけていた事実に、ちょっと安心しました。
それは「手で触れられるものだけが真実じゃない」とする、ヤサコの信念のように思えて。
厄介なものだから手放すのではなく、どう折り合いをつけていくかが大事なんだと、このお話は語ってくれたのではないでしょうか。
少々いたい思いをしても、その先に出口はある。
道は限りなく細くても、信じていればつながっていてくれる。
同じ目的をもった仲間でなくなっても、進む方向が違っても、いつかまた交わる日がくるかもしれない。
いくら変わってもかまわないから、出合ったそのとき、ためらうことなく手と手を結べるように。
いちばん近くで笑って。
遠くにいても泣いてあげられる。
それが、友だちだよ。
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